イスラエルのナザレ出身のパレスチナ人のスレイマン監督は、眼の前で起こる色んな出来事に、朴訥と飄々と、干渉することなく、寡黙に観察する
自作の企画を売り込みに、パリに飛ぶが、制作会社からは、パレスチナでなくてもあることだと却下される
ニューヨークに飛ぶと、タクシーの運転手に、イエスの生誕地の人かと、運賃を奢られるも、制作会社では、企画は一笑に付される
バーで仕事仲間と飲みながら「どうして、みんな、忘れるために酒を飲むのに、君たちは忘れないために飲むんだ?」と茶化される
帰国するが、結局、どの街に行っても、若者と老人と、金持ちと貧しい人と、チンピラと警官と、男と女と、乗り物で追う人と追われる人がいるじゃないか
クラブで飲みながら、踊る若い男女を眺める
シュールなコメディに観えてしまうのは、私がパレスチナ問題に対して、対岸の火事的に真摯じゃないからなのか?